寒さが厳しく、感染症が広がりやすい2月。そのさなかにある2月12日は「ペニシリンの日」である。1941年、イギリス・オックスフォード大学附属病院で世界初の臨床試験が成功したこの日を記念して定められた。1928年、アレクサンダー・フレミングが偶然見つけたアオカビ由来の物質は、やがて感染症治療の歴史を一変させた。抗生物質という概念そのものを生み出し、人類に初めて“細菌と闘う手段”を与えた存在であった。それから約100年。私たちは改めて問い直す時期に来ている。カビという存在は単なる異物なのか。それとも、医療の未来を切り拓く資源なのか。西表島の黒カビから生まれた新薬候補TMS-007は、その問いに静かに光を当てているのである。
ペニシリンがもたらした医学革命
ペニシリンは偶然の産物であった。実験室に放置された培養皿に生えたアオカビが、周囲の細菌を死滅させていることに気づいたことが始まりである。この発見は、感染症が死と直結していた時代において革命的であった。第二次世界大戦中には兵士の命を救い、それまで致命的とされた細菌性感染症の治療を可能にした。20世紀最大の医学的発見の一つと評される所以である。抗生物質の誕生は、医療を「対症療法」から「原因除去」へと進化させた歴史的転換点であった。
カビが切り拓いてきた医薬の歴史
カビはペニシリンだけではない。1973年には遠藤章博士がカビ由来の化合物からスタチンを発見し、コレステロール低下薬として世界中で使用されるに至った。スタチンは動脈硬化を抑制し、心筋梗塞や脳卒中の予防に大きく貢献している。微生物が生み出す生理活性物質は、人類の疾病克服における重要な源泉である。自然界の中に眠る化合物を探し出し、その作用機序を解明する探索研究は、創薬の原点とも言える営みである。その系譜は、いまも脈々と受け継がれている。
西表島の黒カビから生まれたTMS-007

世界自然遺産に登録されている沖縄県・西表島。その豊かな自然環境の中で発見された黒カビに由来する化合物群「SMTP」。その一つが現在開発中の脳梗塞治療薬候補TMS-007である。TMS-007は、血栓を溶かす作用に加え、炎症を抑える働きを併せ持つ点が特徴である。従来の血栓溶解薬とは異なる多面的アプローチを可能にする点に新規性がある。血栓を除去するだけでなく、脳組織を守る作用が示唆されていることは、治療の質そのものを変える可能性を秘めている。
治療可能時間を広げる挑戦

現在、脳梗塞治療に用いられる既存薬は「発症後4.5時間以内」という厳しい制限がある。時間との闘いがそのまま予後を左右する疾患である。しかしTMS-007は、国内で実施された前期第2相臨床試験において、発症後最大12時間という枠で検証が行われた。平均投与時間は約9時間であったにもかかわらず、安全性に大きな問題は認められなかった。また、発症90日後に後遺症のない状態まで回復した患者の割合は、プラセボ群18.4%に対しTMS-007群では40.4%と有意差が示唆された。現在は20カ国規模の国際共同試験(ORION試験)において、投与時間を最大24時間まで拡大し、その有効性を検証中である。時間の壁を越える挑戦が進んでいるのである。
専門家が語る、TMS-007の可能性
脳卒中は日本人の死因第4位、要介護原因第1位とされる重大疾患である。とりわけ超高齢社会に突入した日本においては、発症後の後遺症が本人の生活のみならず、家族の介護負担や社会保障費にも大きな影響を及ぼしている。こうした課題に対し、微生物由来の新規化合物がどのような可能性を持つのか。研究と臨床の最前線に立つ専門家が、その意義を語っている。

微生物がつくる生理活性物質の探求研究について
取締役会長 農学博士 蓮見惠司氏
ペニシリン発見から約100年、カビは今も人類を救い続けています。フレミングがアオカビから抗菌作用を見出したように、私たちは西表島の黒カビから血栓溶解促進作用を発見しました。微生物は長い進化の過程で多様な化合物を生み出してきました。その中には、人類が直面する医療課題を解決する鍵が隠されています。このような探索研究は画期的な医薬品を生む強力な武器であり、TMS-007の発見と開発もその系譜に連なる成果だと考えています。

TMS-007の位置づけについて
東北大学大学院 医工学研究科 神経再建医工学分野新妻邦泰先生
SMTP化合物はカビが生産する天然物で、血栓溶解に加え抗炎症・抗酸化など“脳を守る”多面的作用を併せ持つ血栓溶解薬として、従来薬とは異なるアプローチが可能です。脳梗塞は時間との闘いで、治療の遅れが後遺症に直結します。私自身、動物モデルで顕著な効果を確認し、国内の前期第2相試験にも携わりました。治療可能時間を拡げ、より多くの患者さんに届ける新しい選択肢として、早期の実用化と国際試験の成功を期待します。
ペニシリンから100年、カビが再び医療の未来を照らす
ペニシリンの発見から約1世紀。かつてアオカビが感染症治療に革命をもたらしたように、いま黒カビが脳梗塞治療の新たな可能性を提示している。偶然の発見から始まった歴史は、探索という意志的な営みによって継承されてきた。自然界は静かに、しかし確実に、人類に答えを用意しているのかもしれない。その答えを見つけ出すのは研究者の粘り強い挑戦である。カビは忌避すべき存在ではなく、未来を託すパートナーである。次の100年の医療を形づくる鍵は、私たちの足元に広がる自然の中にあるのである。
